『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』

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どんな作品?

トッド・フィリップス監督作品。2019年に公開され大ヒットした『ジョーカー』の続編となる。前作で多数の殺人を犯して収監されているアーサーのその後を描く。

前作『ジョーカー』の感想はこちら。

『111『ジョーカー』』
鑑賞してからそれなりに日が経つのだが、なかなか感想を書くことができなかった。バットマンシリーズのヴィランであるジョーカーの誕生譚をオリジナルストーリーで描く。…

あらすじ

アーサーはジョーカーとして数々の殺人を犯し、社会の反逆者としてヒーローのように祭り上げられていたが、現在は逮捕されて刑務所の中にいる。模範囚としてコーラスへの参加を許されたアーサーは、そこでリーというジョーカーの信奉者の女性と出会い恋に落ちた。やがてアーサーの殺人についての裁判が始まり、世間の注目を集めるのだが……。

ジョーカーではなくアーサーを描くミュージカル映画

本作の最大の特徴はミュージカル映画だという点。前作もソンドハイムのミュージカル『A LIttle Night Music』の代表曲「Send in the Clowns」が何度も使われているなどミュージカル要素は多分にあったが、今回は完全なミュージカル映画になっている。しかも、かなり曲数が多い。冒頭の短編アニメーションのBGMがガーシュインの楽曲によるミュージカル『Slap that Bass』だったことからも「今回はミュージカルで行きます!」という意思は明白だったし、レディ・ガガはもちろんのことホアキン・フェニックスもかなりの曲数を歌っていた。なんなら、看守役のブレンダン・グリーソンまでちょっと歌っていた(しかもかなり上手かった)。

アーサーの心情などはすべて歌詞で表現されるようになっている。心境や妄想の部分がミュージカルになっているといってしまってもいいかもしれないが、そういう意味ではかなりわかりやすい構成ではある。ただ、全体的なトーンとしてはかなり暗いし、前作とは異なり派手な演出の割合が極めて低い。盛り上げることを意図的に拒否しているといってもいいほどの抑えたトーンなので、前作のような背徳的なテンションの上がり方を期待すると拍子抜けだろう。

前作についての感想を読んでいただければわかるが、私は前作についててズルいという印象を持っていた。あの作品が社会に与え得る影響について巧妙に責任逃れをしているというか、どうとでも取れるように肝心なところを濁して作られているような気がしたのだ。

しかし、今回の続編を観て印象が少し変わった。トッド・フィリップスは、影響を与えるであろうことを予想した上で濁したのではなく、そもそもあれほどの影響を与えてしまうとは予想していなかったのかもしれないと。「今の世の中にこんな人が登場したら、大衆はこんなことになりかねないよね。でも、そんなバカなことはあり得ないけどね」という、それこそ【笑えないジョーク】として作っていたのではないかと。そして、その予想に反して大きすぎるリアクションがあったことで、多少なりとも責任を感じたのかもなと。

考えてみると、倫理的にもかなりバランス感覚がある人間じゃないと『ハングオーバー』みたいな際どいコメディは作れないはずだ。トッド・フィリップスが思うよりも社会は劣悪になっていて、トッド・フィリップスが思うよりも大衆は扇動されやすかったということなのかもしれない。

トッド・フィリップスの落とし前(ネタバレあり)

そういう意味で、今回の続編は前作とは異なり全く濁したところが見受けられない。アーサーはアーサーという無力な存在でしかなく、ジョーカーは幻影に過ぎないと完全に言いきっている。それはもう悲惨なまでに。

ガリガリに瘦せてしまったホアキン・フェニックス演じるアーサーは模範囚であり、エンターテイメントを愛する弱々しい男だ。映画『バンド・ワゴン』の上映会に参加できるのが嬉しくて仕方なくて、「That’s Entertainment!」のシーンに差し掛かると目に涙を浮かべていたほど。そんなアーサーの「曲が始まるよ」の声も遮って火を放ち、彼の中のジョーカーを無理やり呼び起こしたのはリーだった。「フォリ・ア・ドゥ」は複数人で同じ妄想を共有する病気を指すが、ジョーカーの妄想がリーに伝染したというよりは、かつてジョーカーから影響をうけたリーの妄想がアーサーに伝染したといった方が正しい気がする。

ジョーカーのメイクを施したアーサー(つまりはアーサーではなくジョーカー)と愛し合うことを望んだリーと、そんなリーに愛されるために再びジョーカーになることを決意したアーサー。ふたりが繰り広げる妄想のステージはどれも聴きごたえがあり、私としては楽しかった。ホアキン・フェニックスは特に歌が上手いわけではないが味がある歌い方だし、レディ・ガガは文句なしに上手いし。どちらかというと同じようなテンションの曲が続くので単調ではあるものの、本来のアーサーは単調な人間なのであれで正解なんだとも思う。

アーサーのことを唯一アーサーとして認めて愛してくれた人物:ゲイリーが証言台に立ったことでジョーカーの仮面を脱ぐことができたアーサーは、世間にもリーにも見捨てられて「ただのアーサー」として死ぬわけだが(そして次のジョーカーとなる人物は自ら口角を切り裂く)、前作のテンションを引き継ぐのであれば、裁判所が爆破されて脱出できた後でリーと落ち合って逃亡するという展開にすればいいわけだし、その途中で派手に殺されて次のジョーカーを画面の端に登場させればいいはずだ。そうしなかったのは、トッド・フィリップスが「ジョーカーなど幻影に過ぎない」と、あんなものは決して肯定してはいけないとハッキリと示したかったからだと私は感じた。

そして、その落とし前の付け方を私は肯定する。前作はハッキリ言って嫌いな作品だったが、今作と合わせることで好きな作品になった。

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