どんな映画?
監督・脚本は荻上直子。堂本剛が27年ぶりに映画単独主演を務めた作品。アート業界を舞台にしたヒューマンドラマ。
あらすじ
大物現代芸術家の元でアシスタントとして働いているサワダは、自転車事故を起こして右手を負傷してしまう。利き手が使えないことで呆気なく職場をクビになったサワダはコンビニで働きつつ、左手で描いた〇の絵を道具屋に持ち込んだりして食つなぐことにする。しばらくすると見知らぬ男が訪ねてきて「あなたの〇を1枚100万で買い取ります」と言ってきた。不可解に思っていたサワダだったが、あるとき巷で自分の描いた〇が大ブームを巻き起こしていることに気づき……。
アート界を舞台にした皮肉な物語
紙の上を歩く蟻を取り囲もうとして描いた〇が、本人の与り知らぬところで大バズりするという展開はおとぎ話のようではあるが、SNSでひょんなことからバズってしまうことも珍しくない原題ではそれなりに説得力がある。
とはいえ、良くも悪くも現代アートはコンセプトありきなところがあると思うので、実際にはこういった現象はほぼ起こらないだろう(もっと見た目に分かりやすいメッセージや技巧があるならばともかく)。この「ありそうだけど、あり得ないよね」という絶妙なラインがリアルと架空のボーダーを行ったり来たりしている感じで心地よかった。
最初にサワダが働いていたアトリエは、明らかにKaikaikiki(村上隆)をイメージしたもので、アーティストの名前も「秋元」と秋元康を連想させる。アシスタントたちの発想や労働力を搾取し、消費社会においてアートを通じて搾取している存在として提示されているのだが、彼は「実際に作っているのはあなたではない」という疑問を投げかけられて激昂する。自分の頭の中で生まれたものを基に指示を出しているのだから、すべては自分のものだと言えるのだと。この言葉を聞いた時、本作は今のアート業界を皮肉っているのは間違いないが、アートそのものを否定しようというわけではないんだなと私は感じた。
つまり、アートをブームとして消費する社会の異常性や、アートにも厳然としてある搾取の構造を否定していても、「こんなくだらないものを有難がるなんてアホらしい」とは決して考えていないんだろうなと。この時点で私の本作に対する期待はかなり高まった。
「こんなもの誰にでも描ける」のか?
サワダの隣人である横山は「あんな〇なんて誰にだって描ける」と言うが、サワダは正面から反論したり、必死で自分がサワダだと証明しようとしたりはしない。サワダは喜怒哀楽が表に出ないし、何を考えているのかよくわからない人物だ。しかし、アラフォーになるまでアーティストのアシスタントとしてアートに関わり続けてきた人間であり、彼の部屋の床は絵の具で汚れていて、壁には作品が無数に貼られていた。彼は金銭的に貪欲ではなかっただけで「描き続けてきた人」なんだろうこいうことは伝わってきた。
30秒で描いたサインの価値を100万ドルだと言ったピカソが、この絵を描くのには30年と30秒かかっていると言ったというエピソードは有名だが、「こんなもの誰にでも描ける」という横山の言葉には同じように反論できるだろう。おそらく小さい頃から約40年間も描き続けていたサワダが何気なく描いた〇は、誰でも描けるものではない。「どんなに簡単に見えるものでも、作品はアーティストのもの」という基本認識があるからこそ、本作に登場するアート関係者は誰も作品の作者がサワダであることを疑わないのだろう。本作はやはり「こんなものがアートなのか?」という疑問を投げかけるものではなく、そのことは終盤のクライマックスであるサワダの独白によって証明される。
様々な立ち位置のキャラクターが見せる多面的視点
金銭的な欲望と無縁の場所で絵を描き続けてきたサワダが台風の目だとして、本作ではその周りで様々な突風が巻き起こる。作品を徹底的に金銭的な価値で判断する画商、社会的・金銭的成功=人生の成功という認識に囚われている横山、アート界の搾取構造に怒り続ける矢島、自らアートの流れを作り出す仕掛けやである土屋。
そして、彼らに翻弄されて自己を見失いそうになるサワダを引き戻してくれる存在としての、モーと先生。〇への発想を与えてくれ、禅のインスピレーションを授ける先生は神のような存在であり、サワダのアートに対する気持ちを根源的な部分に引き戻してくれる。モーは、アートとは別の世界で搾取される存在として提示されつつ、そんな現状に翻弄されないように自らの視点と支柱を強く持つ人物として提示される。コントロール不可の状況にサワダがストレスを感じるとき、彼らがサワダを「本来あるべき場所」へと導いてくれるのだ。それは「ただ、描きたい」というシンプルな渇望であり、サワダは一度だけその情熱を涙ながらに横山に打ち明けることになる(このシーンはかなり感動的だった)。
風刺映画だが、アートを信じている誠実な作品
もうひとつ印象に残ったシーンは、矢島たちが個展に乱入して、サワダの作品に絵の具をぶちまけていくのを見て、チラッと映った土屋がニヤっとした一瞬。禅と平和の文脈で解釈されているサワダの作品が、社会的な怒りのメッセージに満ちた人々によって手を加えられるというのは、アート史の文脈で見ればおそらく結構面白いコンテクストであり、サワダが順調にアート界で名を上げていけば将来的に市場価値が上がる可能性が高い。矢島たちの行動はそれこそアートの消費に一役買ってしまっているというのは皮肉なのだが、土屋の笑みの理由はそれだけではないようにも思えた。きっと、誰かの意図を持ったそういった行動そのものを「面白い」と思っているんじゃないかと。サワダが最後の作品に穴を開けたのにも通じるが、土屋は金銭的な価値以上にアートそのものを楽しんでいるように感じられた。一段高いところからアート業界全体を俯瞰しているような視点は、ある意味で先生と対になっている存在ともいえるかもしれない。
結局のところ、サワダは一連の騒動の中で本来の自分の立ち位置を再確認し、自分らしく生きて描き続けることを選んだ。不眠症に悩んで欲望に振り回されていたサワダは感情がよくわからないわけだが、横山がサワダにかけた「おかえり、おつかれ、おやすみ」という言葉がサワダのドラマをよく表しているのだろう。やりたいことをやって、話したい人と会って、ぐっすり眠る。それ以上に大切なものなどないし、アートは消費されるだけの幻想でもなんでもなく、少なくともサワダにとっては生きる源なのだ。
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