『シビル・ウォー アメリカ最後の日』

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どんな映画?

『エクス・マキナ』のアレックス・ガーランドが監督・脚本をてがけたA24作品。内戦が勃発したという想定の架空のアメリカの姿を、ジャーナリストたちの視点で見せる。

あらすじ

連邦政府から19の州が離脱したアメリカ。現在はカリフォルニア州とテキサス州による西部勢力がワシントンD.C.に向けて進行している。大統領は政府軍の優位を発表し続けていたが、実情は逆。経験豊かな戦場カメラマンであるリーは、相棒のジョエル、ベテランジャーナリストのサミー、新人カメラマンのジェシーと共に、大統領の単独インタビューを撮るべくD.C.を目指すことにするのだが……。

地獄めぐりのロードムービー

リーが序盤で「私たちは記録するだけだ」と宣言するように、本作では戦争の正義やジャーナリズムの正義といった問いについては語られない。ただ目の前で起こることをキャプチャーしていくだけでアリ、戦争の背景についても最低限の情報しか提示されない。憲法を改正しようとする保守派の大統領は確かにトランプを彷彿とさせるが、青い州と赤い州という単純な対立構造にしてはいない(この辺りの設定が巧みだ)。※なお、テキサス州とカリフォルニア州はアメリカで人口やGDPなど最も規模が大きい2州である。

リーたちは行く先々で色々な状況に巻き込まれるわけだが、そこにいる人々は様々。戦闘中の兵士はもちろんのこと、謎の自警団や外部の者を排除して平和を保とうとしている町などに遭遇する。そのどれもに共通するのは異様な緊張感と、何かが確実に狂っているという実感だ。

殺していいと見なした相手を容赦なく打ち殺すのも異常ならば、すぐそこで戦争が起きているのに無関係を貫いて偽りの平穏を維持するのも異常だ。本作が恐ろしいのは、色々なレイヤーの異常を次々と提示してくるところであり、あるシーンなどもはやその殺戮が何を目的とするものなのかすら判然としない。その場においては意味や立場などは意味をなさず、ただ「殺される可能性があるから殺す」というルールだけが存在するのだ。観客はリーたちと共に、戦闘という異常の中で生まれている様々な異常に晒されて、ただひたすら恐怖を味わうことになる。

こだわり抜いた臨場感と音の演出(ネタバレあり)

本作はシーンとシーンを繋いだロードムービーであり、わかりやすいストーリーラインがあるわけではない。『エイリアン ロムルス』でヒロインを演じたケイリー・スピーニーが怯えた若者から極限状態に興奮を覚える肝の据わったカメラマンへと成長するという変化はあるものの(ロムルスとほぼ同じようなキャラクターだともいえる)、そこまでドラマチックな起承転結は用意されていない。

最初にリーが語ったように、本作は記録するだけなのだ。銃声や爆弾による爆音を、爆音の後の静寂を。記録することに意味があると信じて突き進み、スクープを撮ることを盲目的に追い求めるジャーナリストたちを。笑いながら拷問の末に瀕死となった人々と記念写真を撮る男を。人種差別を隠しもせずに独自の正義を信じて殺戮を繰り返す人間を。極限状態で自分自身を見失いそうになる人間の弱さを。充足感に満ち足りた姿で大統領を射殺する西部戦力の兵士たちを。とんでもない量の火薬を使った臨場感溢れる撮影とスクリーンに次から次へと映し出される「異常」に、私はただただ圧倒されてしまった。

そして、残虐な現実が与える恐怖と興奮を増幅させる音楽にシアター内を何度も支配させることにも驚いた。すべてが異常であってはならないことなのに、私もジェシーのように興奮していることを音楽が爆音で流れる度に自覚させられた。恐怖だけではなく、お前も”Feel Alive”しているんだろ?と突き付けてくる音の演出。この内戦は架空のものだが、この「異常」は今も世界の各地で起きているんだぞと真っ直ぐに指をさされているような、そんな映画だった。そして、今起きている戦争の裏にはアメリカがいることについての痛烈な皮肉でもある。

印象的なシーンは、ジェシー・プレモンスが出ているシーンと終盤の戦闘だろう。リーは序盤で「これから起こることはこんなものじゃない」とジェシーに言うが、その言葉の通りに本作は右肩上がりに過酷になっていく。また、目の前で殺される多くの人物は有色人種で、そのこともこちらの精神を蝕んでくる。キルスティン・ダンストらすべてのキャストが本気で怖がっている迫力のクライマックスを絶対に見逃さないでほしい。傑作。

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